【小説】 深緑の森 1
2008年 10月 08日
激しく降る雨音の中にそれが聞こえるのを、耳を澄ませてじっと待っている。
戻って来ませんように 戻って来ませんように
冷え切った両手を祈るように握りしめ、膝に頭をうずめる。
しばらくして、ついに雨の音に混じって聞きなれた重い足音が近づいてきた。廃墟の壊れかけた戸が開き、恐怖に目を見開く彼女の前にそれは現れた。
「もう行くぞ ここに用は無い」
全身を覆う真っ黒な毛から雨を滴らせながら、ウォルフは血の付いた鍵爪で少女の細い腕を掴んだ。
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いつからこの黒い化け物と共に旅をしているのだろう。アラバマが物心ついた時にはこの怪物は、彼女を連れてあちこちの村を襲っていた。
人狼と呼ばれるこの怪物は、人の姿になる能力を持っていた。
人間の時のウォルフは端正な顔立ちではあったが、冷酷過ぎる眼差しと2メートルを超す背丈、真っ黒なフード付きのマントを羽織る様は、彼女にとって本来のウォルフと大して変わり無い程恐ろしかった。
それでもせめていつも人の姿で居てくれたらいいのに。
何故夜になると元の狼に戻ってしまうのだろう。
巨大な体を覆う黒い毛と鋭い鍵爪、血生臭い息を吐く化け物と同じ部屋で眠るのは悪夢だ。
冷たい雨の降る真っ暗な森の中をその怪物と歩きながら、少女は胸にかけたペンダントを握りしめた。
パパ ママ・・・。
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ずっと首に下げていたペンダントに写真が入っていると気付いたのは、アラバマがだいぶ大きくなってからだった。
何度も逃げ出そうと試みていた彼女は、その日も怪物から逃げようと森の中を走っていた。そして後ろから追って来たウォルフに突き倒され、転んだ拍子にペンダントの蓋が開き、両親の写真が入っている事に気が付いたのだ。
その写真を見たウォルフは怒り狂い、ペンダントを取上げようとした。しかしアラバマは全力で抵抗し、これを取られるくらいならその場で喉を掻き切って死ぬと泣き叫んだ。
怪物は全てを飲み込む闇のような瞳を怒りで燃え上がらせながら、それでもペンダントを奪い取るのを最後には諦めた。
彼女がウォルフを真っ向から睨み付けたのはその時だけだ。
目の端に映るだけでも恐ろしいその姿を直視しようとした事は後にも先にもそれっきりだった。
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遠くに明かりがぽつぽつと見え、新たな犠牲者達の住む村に到着した事がわかった。いつの間にか怪物は人間へとその姿を変えていた。
宿屋へ向かっている事に気付いて少しほっとする。少なくともこの冷たい雨の中、真っ暗な森に建つ廃墟で化け物と二人きりで夜を過ごさずに済む。
宿屋の主人は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに愛想笑いを浮かべ2人を二階の部屋へと案内してくれた。ウォルフの差し出した余分過ぎる金貨に目が眩んで、怪しい風貌などどうでもよくなったのだろう。
それが自分の命を縮めるとも知らずに。
久し振りの暖かいベッドに潜り込んで、ウォルフに気付かれないようにアラバマはそっとペンダントの蓋を開けた。
そこには若く美しい女性とハンサムな男性が、寄り添って幸せそうに笑っている。女性の薄いブルーの目と、男性の艶やかな栗色の髪が自分に受け継がれているようだ。
この二人をかすかに覚えている気がする。しかし見覚えがあるというだけで他に何の思い出もない。
ただ。
深緑の森の中で、自分がとても暖かく愛情に溢れた眼差しで見守られていた記憶だけが残っている。
あの時見つめてくれていたのはパパ?ママ?
写真の中の二人に心の中で話し掛けながら、いつしか疲れた体は深い眠りへと落ちていった。その目からは一筋の涙が頬を伝っていた。
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翌朝、宿屋の主人が朝食を運んで来た時には、ウォルフはもう何処かに出かけた後だった。
主人はお盆を手にそっと部屋を覗き、おどおどした少女だけが居るとわかると安心して部屋に入ってきた。
テーブルに二人分の朝食を置き、彼女に笑いかけながら薄暗い部屋のカーテンを開ける。
「雨がやんだよ いい天気だ」
そして朝日を浴びてよく見えるようになった少女の首一面に、ぐるりと痣があるのを目敏く見つけた。
「おやおや どうしたんだい?それは・・・・あの男に?」
アラバマは助けを求めたい衝動に駆られたが、すでに主人が厄介事に首を突っ込みたく無いと思い始めている気配を察して首を横に振った。
「いいえ なんでもないんです」
「そうかい まあ朝食を楽しんでくれ」
もし主人がもっと熱心に手助けをしようとしてくれたとしても、彼女は尚更それを拒否しただろう。ただの人間があの化け物に勝てるなどという幻想はとっくに捨てている。
ある村では、腕の立つ戦士が彼女を助けようとしてくれた事もあった。ウォルフが居ない間に一人の戦士が彼女の元にやって来て力強く励ました。
「もう大丈夫だよ 私は今まで沢山のモンスターと戦ってきた。あいつは化け物なんだろう?今夜私が奴を倒す。夜が明けた時 君はもう自由だ」
しかし
そう言った戦士は
彼女の目の前で
引き裂かれ
放り投げられ
物言わぬ屍となり
返り血を浴びて座り込んだアラバマを、ウォルフが強引に引き摺って次の村へと旅が続いただけだった。
「その首の痣は私がお前をさらった時につけたものだ」
夜に村を襲いに行くまでの間、夕闇が近づく森の中である時ウォルフがそう言った。
「お前の両親を殺し 小さなお前も殺そうと首を捻りかけたのだ」
その痣はその時ついたものだ、とウォルフは言った。
そして事有るごとにその話を繰り返した。
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朝食を運んでくれた宿屋の主人は、夜にはウォルフの夕食になってしまった。
階下で大きな物音と悲鳴が聞こえ、アラバマがその断末魔を聞くまいと耳を塞いでベッドの中で震えていると、血まみれの狼が部屋に入ってきた。
「もう行くぞ ここに用はない。」
彼女が動かず頭を抱えてベッドの中に縮こまっていると、鋭い鍵爪が羽根布団を引き裂いた。
羽毛が部屋中に舞い上がり、悲鳴を上げるアラバマを引きずり出してウォルフが部屋を出ようとすると、騒ぎを聞きつけた村の男達が手に武器を持って飛び込んできた。
「その少女を放せ!」
そういい終わるか終わらないうちにその男は吹っ飛び、壁に叩きつけられて絶命した。
慌てて逃げ出す他の男達を長い鍵爪で引き裂きながら、ウォルフは村を後にした。
「おまえがさっさと動かないから新たな犠牲者が出たのだ」
「すぐに村を出ていればあの男達は死なずに済んだ」
血まみれの怪物は、放心し人形のようにだらりとなった少女を引きずって歩きながらそう言った。
「私の命令に素直に従うか私を倒す技術を身につけるか、そのどちらかを選ぶがいい」
そして吼えるように高笑いをした。
つづく
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